1986年に大学を卒業して、社会人になってからも、吉田君とのつきあいは続いた。卒業前には、会社勤めになったら、あまりクライミングをやる時間もないし、地方転勤があるから会うこともなくなると思っていたのだ。しかし、偶然、最初の赴任地が長野市になり、小川山に通うことができるようになった。そして、夏は小川山、冬は頑張って城ヶ崎まで遠征して、吉田君と一緒に登っていた。彼は、夏は川上村の工事現場にあるプレハブの建物を借りて住んでいた。ほこりっぽくて、一日そこにいると喉が痛くなる場所だった。かれが肺を痛めたのはもしかしてあそこに住んだせいではないかと思わないでもない。私は休みの前日の深夜、買ってまもないトライアルバイクに乗って、そのプレハブに行き、シュラフにくるまって寝た。そして夜が明けると、彼と一緒にバイクで岩場を目指した。朝の冷たい空気の中、ふたりしてレタス畑の中、バイクを飛ばしたあの光景が今でも目に浮かぶ。

 冬になると、またまた深夜に車を飛ばして伊豆の新しい吉田ハウスに行き、そこを拠点にして登っていた。彼は城ヶ崎で、何カ所か場所を移動していたので、当時の吉田ハウスがどこだったか、あまりはっきり覚えていない。大川だったような気がするが、確信がない。当時は城ヶ崎が人気だった時代だから、大岩さんとか何人かが家を借りていた。吉田ハウスにも多くの人が出入りしていて、私もそこで多くの人に出会った。この頃、当時日本初の12とか言われていた、タコを一緒に登ったと思う。開拓では、大ルーフエリアの「あの娘におせっかい」とか「ブリザード」なんかを彼が登り、私も一緒にトライしたような気がする。夜に、廃墟となったホテルの地下にある温泉に入りに行ったことも思い出す。

 1989年に私が北海道の旭川に転勤になると、そこでも彼とのつきあいが続いた。当時、赤岩青巌峡が開拓されつつある時代で、彼と一緒に通っていた。旭川にある登山具店、秀岳荘によく入り浸っていて、店長のKさんや若いスタッフ、私、吉田君などで一緒に登っていた。朝練として、会社に行く前に、市の郊外にある岩場にトレーニングしにいったり、仕事が終わってから、車のライトで岩場を照らして登ったこともあった。吉田君が私のマンションに居候し、そこを起点にあちこち登りに行っていた時期もあった。マンションにちょっとしたぶら下がりボードを作り、一緒にどのくらい薄いホールドにぶらさがれるか競ったりしていた。このころから、彼は筋肉の働きについて研究し、どの筋肉を鍛えるとどういうホールドに強くなるとか、そういう知識に詳しくなっていった。

 91年に札幌に転勤になると、私は札幌の仲間と登ることが多くなったが、赤岩青巌峡やカムイコタンなどで吉田君に会えば、一緒に登っていた。そのころ、私は毎週のように赤岩青巌峡に通い、冬も登っていた。北海道では冬は岩登りをしないのが普通だったのだが、やってみれば冬でも登れることが分かったからだ。私は青巌峡の近くにあった廃屋を借り、そこを登るための拠点としていた。近くにシカが出たことから「シカの出るハウス」と呼ばれたその家には、夏になると本州からきたクライマーがよく泊まっていた。吉田君もしばらくそこに住み着き、越冬したこともあった。北海道でも一番寒い場所だから、あそこで冬を越すのは大変だったろうと思う。しかし真冬の青巌峡で雪をラッセルしてウォームアップし、指のかじかみに耐えながら登ったのは今からしてみるととても楽しかったと思う。

 私が北海道にいた6年の間に、吉田君は神居岩のローリング30(13c)、赤岩青巌峡に日高源流エサオマン(13b)、ジングルベル(13c)など高難度ルートを次々と開拓していった。そして私はそれを再登するのが目標となった。彼が初登してから、比較的短時間で私が再登ことが多かったから、友であり、ライバルでもあるというような関係だったと思う。

 当時、私もいくつかのルートを初登したが、赤岩青巌峡の「Move on」は実は吉田君がボルトを打っていたのを私に「登っていいよ」と譲ってくれたものだった。別に彼が登れないというものではなかったから、ただ好意で譲ってくれたのは間違いない。これ以外にも、城ヶ崎でもおたつハングのダイレクトも、「登れるなら登っていい」と言ってやらせてくれたことがある。そういう点では彼は寛容で、なんでも自分のものにしようというふうではなかった。