学生のころの吉田君の思い出で、今も強く心に残っていることが一つある。

正確な時期は忘れたが、3月か4月頃のことだった。しばらく城ケ崎で吉田君と一緒に登った後、八王子の自宅に帰り、ふだんの生活に戻っていた私のもとに、彼から手紙が届いたのだ。封筒を開けてみると、どうしても初登したいルートがあるからビレーしてほしいという内容だった。たしか、大学か何かの手続きのため、北海道に戻らなければならず、それまでに何とか登りたいのだが、ほかにビレーヤーのあてがないので君に頼みたい、と言うことだったと思う。来てほしいと指摘された日付は、手紙が届いた翌日だった。

 なんでまあ、手紙なんてと、思わないでもなかった。自宅には電話があるのだから電話することも可能だっただろうと思う。今いろいろ理由を考えてみてもはっきりしたことは分からない。推測するに、私がクライミングすることに私の親が反対していたので、電話して私の親と話すことになるのを避けたのかもしれない。親がクライミングや登山に反対しているという話を彼にしたことがあったから。

もちろん当時、携帯はなかったから私と直接話すことはできなかった。

 行くかどうか、少し迷った。授業かなにか、学校の用事があったと思う。それに、明日というのもちょっと急で、強引な感じがした。で、結局、行かなかった。吉田君の家にも電話はなかったから、そのことを電話で連絡することはできなかった。今考えると、電報でも打ったらどうだと思うが、それも思いつかなかったのだろう。

 今、このことを思い出すと、あのときはやっぱり行けば良かったと思う。私の用事というのは絶対やらなければならないほどのものではなかったはずだ。行っていけないことはなかった。自宅で、親と一緒に暮らしていた私にとって、学校の授業があるのにクライミングに行くというのが言いにくかったというぐらいの理由だったような気がする。

 指定されたその日、彼が、私が来るか来ないかと、待ちわびていた様子を想像すると、胸が痛む。それは、まあ、急に頼まれても行けないことはあるんだからしょうがない、とは言える。だが、本当に友人から必要とされる機会というものが、どれだけあるのだろう。わざわざ手紙を書いてビレーヤーを依頼してまで登りたかった、その想いに答えるべきだったと思う。

 その後、彼は、「どうしても登りたい」と言っていたそのルートを別の人のビレーで初登し、「熱き想いをこめて」というルート名を付けた。初期の吉田ルートの傑作だ。

 このあと、城ケ崎を中心にクライミングを続ける中で、吉田君はJMCCのメンバーを初め、クライマー人脈を広げていった。だから、最初の頃に比べればビレーヤーに困ることは減ったはずだ。それでも平日とか、へんぴな場所とかなかなか多くの人が行かない場所にあるルートでは、ビレーヤーの確保は彼にとってずっと課題だったように思う。