2016年10月

吉田和正のこと5 ローリング30

きょう通勤の途中、いつも使っているウォークマンで音楽を聴いていたのだが、ふと思い立って吉田拓郎の「ローリング30」を聴いてみた。

「ローリング30」は吉田君が、北海道の神居岩に開拓した13cのルートの名前でもある。彼が、初登に向けてこのルートをトライしていたとき、何度かビレーしたことがあった。例によって長いハングドッグで、夕方、暗くなってから岩場を一緒に下山したものだ。当時、ルート名の由来を彼に尋ね、彼は「吉田拓郎の曲の名前だ」とだけ答えた。私は、その曲を聴いたことがなかったが、彼がルート名に込めた意味は推測できた。「ローリング」といえば、ボブディランのライク・ア・ローリングストーンとか、ローリング・ストーンズが思い浮かぶから、転がり続ける石、常に前進を続ける生き方という意味だと思った。当時、私たちは30代になったばかりだったと思う。今思えば笑ってしまうが、当時は、クライマーとして、30代になるとあまり先がないというような焦りに似た気持ちがあった。このルート名に込めた気持ちは、30代になってもまだまだやるぜ、というような意気込みだったのだろう。

 

ことし7月下旬、吉田君が肺がんで入院したという知らせを聞いて、私は急遽、北海道・富良野の病院に見舞いに行った。そのときに、何かお見舞いの品を持って行こうかと考えたときに、思いついたのが吉田拓郎の曲を聴かせてあげることだった。本も考えたが、症状が重いと読むのもかなり体力を使う。音楽をすこし聴くぐらいならできるのではないかと思った。どのアルバムがいいのかよく分からなかったが、彼がルート名にしたローリング30が入っている、同名のアルバムを買って、私が以前使っていたウォークマンに入れた。そのほかにも、井上陽水など彼が聴くかもしれないアルバムとか、気持ちを安らかにできるようなクラシックとかを入れた。

7月30と31日に見舞いに行って、そのウォークマンと充電コードなどを彼にあげた。「吉田拓郎のローリング30が入ってるよ」というと彼は、「そうか、じゃあ、さっそく聴いてみようじゃないか」と言ってすぐ聴きたがった。iPodとかは使ったことがないみたいで、「最近はこういうので聴けるんだ」などと言っていた。最初は操作にとまどっていたが、すぐ覚え、ローリング30を聴き出した。ベッドの背もたれを起こし、それに寄りかかって聴きながら「これは勇気づけられる」と言った。それからけっこう長い間、彼は目を閉じ、小さな声で口ずさみながら聴いていた。

 

あの日のことを思い出しながら、またこの曲を聴いていると、この歌が、彼の心に響いた訳が分かるような気がする。この歌詞の内容は、彼の生き方とそっくり重なるように思えるのだ。「なまぬるい日々に流される者よ 俺だけは違う身を切って生きる」なんていうところとか。聴いていて思わず目頭が熱くなってしまった


歌詞の全文転載は違法らしいのでここには載せないが、検索すればすぐ見つかるので探してみてください。

吉田和正のこと4 一緒に登った20代

 1986年に大学を卒業して、社会人になってからも、吉田君とのつきあいは続いた。卒業前には、会社勤めになったら、あまりクライミングをやる時間もないし、地方転勤があるから会うこともなくなると思っていたのだ。しかし、偶然、最初の赴任地が長野市になり、小川山に通うことができるようになった。そして、夏は小川山、冬は頑張って城ヶ崎まで遠征して、吉田君と一緒に登っていた。彼は、夏は川上村の工事現場にあるプレハブの建物を借りて住んでいた。ほこりっぽくて、一日そこにいると喉が痛くなる場所だった。かれが肺を痛めたのはもしかしてあそこに住んだせいではないかと思わないでもない。私は休みの前日の深夜、買ってまもないトライアルバイクに乗って、そのプレハブに行き、シュラフにくるまって寝た。そして夜が明けると、彼と一緒にバイクで岩場を目指した。朝の冷たい空気の中、ふたりしてレタス畑の中、バイクを飛ばしたあの光景が今でも目に浮かぶ。

 冬になると、またまた深夜に車を飛ばして伊豆の新しい吉田ハウスに行き、そこを拠点にして登っていた。彼は城ヶ崎で、何カ所か場所を移動していたので、当時の吉田ハウスがどこだったか、あまりはっきり覚えていない。大川だったような気がするが、確信がない。当時は城ヶ崎が人気だった時代だから、大岩さんとか何人かが家を借りていた。吉田ハウスにも多くの人が出入りしていて、私もそこで多くの人に出会った。この頃、当時日本初の12とか言われていた、タコを一緒に登ったと思う。開拓では、大ルーフエリアの「あの娘におせっかい」とか「ブリザード」なんかを彼が登り、私も一緒にトライしたような気がする。夜に、廃墟となったホテルの地下にある温泉に入りに行ったことも思い出す。

 1989年に私が北海道の旭川に転勤になると、そこでも彼とのつきあいが続いた。当時、赤岩青巌峡が開拓されつつある時代で、彼と一緒に通っていた。旭川にある登山具店、秀岳荘によく入り浸っていて、店長のKさんや若いスタッフ、私、吉田君などで一緒に登っていた。朝練として、会社に行く前に、市の郊外にある岩場にトレーニングしにいったり、仕事が終わってから、車のライトで岩場を照らして登ったこともあった。吉田君が私のマンションに居候し、そこを起点にあちこち登りに行っていた時期もあった。マンションにちょっとしたぶら下がりボードを作り、一緒にどのくらい薄いホールドにぶらさがれるか競ったりしていた。このころから、彼は筋肉の働きについて研究し、どの筋肉を鍛えるとどういうホールドに強くなるとか、そういう知識に詳しくなっていった。

 91年に札幌に転勤になると、私は札幌の仲間と登ることが多くなったが、赤岩青巌峡やカムイコタンなどで吉田君に会えば、一緒に登っていた。そのころ、私は毎週のように赤岩青巌峡に通い、冬も登っていた。北海道では冬は岩登りをしないのが普通だったのだが、やってみれば冬でも登れることが分かったからだ。私は青巌峡の近くにあった廃屋を借り、そこを登るための拠点としていた。近くにシカが出たことから「シカの出るハウス」と呼ばれたその家には、夏になると本州からきたクライマーがよく泊まっていた。吉田君もしばらくそこに住み着き、越冬したこともあった。北海道でも一番寒い場所だから、あそこで冬を越すのは大変だったろうと思う。しかし真冬の青巌峡で雪をラッセルしてウォームアップし、指のかじかみに耐えながら登ったのは今からしてみるととても楽しかったと思う。

 私が北海道にいた6年の間に、吉田君は神居岩のローリング30(13c)、赤岩青巌峡に日高源流エサオマン(13b)、ジングルベル(13c)など高難度ルートを次々と開拓していった。そして私はそれを再登するのが目標となった。彼が初登してから、比較的短時間で私が再登ことが多かったから、友であり、ライバルでもあるというような関係だったと思う。

 当時、私もいくつかのルートを初登したが、赤岩青巌峡の「Move on」は実は吉田君がボルトを打っていたのを私に「登っていいよ」と譲ってくれたものだった。別に彼が登れないというものではなかったから、ただ好意で譲ってくれたのは間違いない。これ以外にも、城ヶ崎でもおたつハングのダイレクトも、「登れるなら登っていい」と言ってやらせてくれたことがある。そういう点では彼は寛容で、なんでも自分のものにしようというふうではなかった。

吉田和正のこと3 後悔

学生のころの吉田君の思い出で、今も強く心に残っていることが一つある。

正確な時期は忘れたが、3月か4月頃のことだった。しばらく城ケ崎で吉田君と一緒に登った後、八王子の自宅に帰り、ふだんの生活に戻っていた私のもとに、彼から手紙が届いたのだ。封筒を開けてみると、どうしても初登したいルートがあるからビレーしてほしいという内容だった。たしか、大学か何かの手続きのため、北海道に戻らなければならず、それまでに何とか登りたいのだが、ほかにビレーヤーのあてがないので君に頼みたい、と言うことだったと思う。来てほしいと指摘された日付は、手紙が届いた翌日だった。

 なんでまあ、手紙なんてと、思わないでもなかった。自宅には電話があるのだから電話することも可能だっただろうと思う。今いろいろ理由を考えてみてもはっきりしたことは分からない。推測するに、私がクライミングすることに私の親が反対していたので、電話して私の親と話すことになるのを避けたのかもしれない。親がクライミングや登山に反対しているという話を彼にしたことがあったから。

もちろん当時、携帯はなかったから私と直接話すことはできなかった。

 行くかどうか、少し迷った。授業かなにか、学校の用事があったと思う。それに、明日というのもちょっと急で、強引な感じがした。で、結局、行かなかった。吉田君の家にも電話はなかったから、そのことを電話で連絡することはできなかった。今考えると、電報でも打ったらどうだと思うが、それも思いつかなかったのだろう。

 今、このことを思い出すと、あのときはやっぱり行けば良かったと思う。私の用事というのは絶対やらなければならないほどのものではなかったはずだ。行っていけないことはなかった。自宅で、親と一緒に暮らしていた私にとって、学校の授業があるのにクライミングに行くというのが言いにくかったというぐらいの理由だったような気がする。

 指定されたその日、彼が、私が来るか来ないかと、待ちわびていた様子を想像すると、胸が痛む。それは、まあ、急に頼まれても行けないことはあるんだからしょうがない、とは言える。だが、本当に友人から必要とされる機会というものが、どれだけあるのだろう。わざわざ手紙を書いてビレーヤーを依頼してまで登りたかった、その想いに答えるべきだったと思う。

 その後、彼は、「どうしても登りたい」と言っていたそのルートを別の人のビレーで初登し、「熱き想いをこめて」というルート名を付けた。初期の吉田ルートの傑作だ。

 このあと、城ケ崎を中心にクライミングを続ける中で、吉田君はJMCCのメンバーを初め、クライマー人脈を広げていった。だから、最初の頃に比べればビレーヤーに困ることは減ったはずだ。それでも平日とか、へんぴな場所とかなかなか多くの人が行かない場所にあるルートでは、ビレーヤーの確保は彼にとってずっと課題だったように思う。

吉田和正のこと2 「40で死んでも」

学生時代、吉田君と話したことで印象に残っていることについて話しておきたい。

大学をやめてクライミングに専念するぐらいだから、彼はクライミングで一番になることを目指していたと思う。どういう話の流れだったかは覚えていないが、「世界のトップになれるんだったら40歳ぐらいで死んでもいい」というようなことを言っていた。私は「それは早すぎないか」とかなんとか言ったと思うが、それに対してはだらだら長生きしてもしようがない、というような返事だったように思う。   

まあ、若いときに特有の、極端な考え方と言えなくもない。しかし、当時の一般的な考えとしては、スポーツをばりばりやれるのは30歳ぐらいまでで、35ぐらいになればみんな引退するというような雰囲気だった。最近は食事とか、さまざまなケアが進歩しているから、スポーツ選手が40代でも現役という人が増えているが、当時は40代はスポーツ選手としては「もう終わっている」というような考えだったように思う。だから彼としては、やれるうちに、限界まで可能性を伸ばしたいという考えだったのだろう。そして、その通り、誰よりもクライミング一筋に生き、多くの成果を残してきた。

ただ、私は今、吉田君と同じ53歳になっているのだが、衰えている部分は多いものの、意外に進歩しているところもあったりする。6月にけがをしたので、今は全然駄目だが、ことしの初め頃は、指の力は過去最高ぐらいにあった。さすがに、けがはしやすくなっているが、若い頃に比べれば、トレーニングの仕方とか体のケアなど、いろんな面で知恵もついているとも思う。吉田君の最近のブログをみても、緩い傾斜のクライミング能力では過去最高かもしれない、という記述があったりして、彼も同じようなことを感じていたのかな、と思ったりもする。私からすると、年を取っても、それなりに限界を伸ばせる可能性はあるし、楽しみのあるということを感じている。その辺のところ、彼はどう思っていたのか、話し合ってみたかった。最後に見舞いに行ったとき話せばよかったのかもしれない。しかし、そのときは、意外に元気そうだったので、きっとまた会えると思ってあまり突っ込んだ話はしなかった。

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