吉田和正のこと2 「40で死んでも」

学生時代、吉田君と話したことで印象に残っていることについて話しておきたい。

大学をやめてクライミングに専念するぐらいだから、彼はクライミングで一番になることを目指していたと思う。どういう話の流れだったかは覚えていないが、「世界のトップになれるんだったら40歳ぐらいで死んでもいい」というようなことを言っていた。私は「それは早すぎないか」とかなんとか言ったと思うが、それに対してはだらだら長生きしてもしようがない、というような返事だったように思う。   

まあ、若いときに特有の、極端な考え方と言えなくもない。しかし、当時の一般的な考えとしては、スポーツをばりばりやれるのは30歳ぐらいまでで、35ぐらいになればみんな引退するというような雰囲気だった。最近は食事とか、さまざまなケアが進歩しているから、スポーツ選手が40代でも現役という人が増えているが、当時は40代はスポーツ選手としては「もう終わっている」というような考えだったように思う。だから彼としては、やれるうちに、限界まで可能性を伸ばしたいという考えだったのだろう。そして、その通り、誰よりもクライミング一筋に生き、多くの成果を残してきた。

ただ、私は今、吉田君と同じ53歳になっているのだが、衰えている部分は多いものの、意外に進歩しているところもあったりする。6月にけがをしたので、今は全然駄目だが、ことしの初め頃は、指の力は過去最高ぐらいにあった。さすがに、けがはしやすくなっているが、若い頃に比べれば、トレーニングの仕方とか体のケアなど、いろんな面で知恵もついているとも思う。吉田君の最近のブログをみても、緩い傾斜のクライミング能力では過去最高かもしれない、という記述があったりして、彼も同じようなことを感じていたのかな、と思ったりもする。私からすると、年を取っても、それなりに限界を伸ばせる可能性はあるし、楽しみのあるということを感じている。その辺のところ、彼はどう思っていたのか、話し合ってみたかった。最後に見舞いに行ったとき話せばよかったのかもしれない。しかし、そのときは、意外に元気そうだったので、きっとまた会えると思ってあまり突っ込んだ話はしなかった。

吉田和正のこと 1 出会った時のこと

9月26日に吉田和正が亡くなった。

彼のブログは時々見ていて、「相変わらずだな」と、無事で過ごしていることが当たり前のように思っていた。今になって思えば、もっといろんなことを彼と話しておけば良かったと思う。毎日、ふとした折りに、彼との思い出が浮かんでくるが、その当時、彼がどう思っていたのかなどは、いまとなっては分かりようもない。せめて、覚えていることだけでも、すこしずつ書き留めておこうと思う。なかには私しか知らないこともあるだろうし、彼がどんな人だったのか、理解してもらうのに役立つかもしれないから。記憶に基づくものなのであまり正確ではないかもしれないが、間違いが分かったらあとで修正します。

初めて彼と会ったのは私が20歳のとき、1984年、大学2年の3月ぐらいだったと思う。もしかしたら大学3年の春だったかもしれないが、記憶がはっきりしない。

当時、フリークライミングに熱中し始めていた私は、それなりにあちこちの岩場にいくようになっていたが、身近に気軽に一緒に行ってくれるパートナーがいなかった。といっても、クライミングジムというものもなく、街中では近くの石垣を登るぐらいしかない。とりあえず岩場に行くしかない。春休みになったのを機に、ひとりで城ケ崎に行ったのだった。

 吉田君に会ったのは、シーサイドエリアだった。私はブロッカーを使って5・9のイントロダクションを登るつもりで、終了点にロープを固定し、懸垂下降した。まだ買ってまもない、ピンク色のシングルロープだったと思う。さて登ろうかと思ったころ、「ひとりで登ってるんですかー」と終了点付近から声がした。「そうです」と答えると、「一緒に登りませんか」と言うので「お願いします」といって、一緒に登ることになった。

その時は、たぶん最初にトップロープで5.9のイントロダクションを登ったと思う。その後、リードもしたと思うが定かではない。10aのジャムセッションも登ったはずだ。サイクロン11cもやったような気がするが、この日ではなかったかもしれない。

彼は当時はそれほどうまくなくて、10台がそこそこ登れるぐらいだった。それでも私より若干うまかった。特に持久力があるなと思った。

夕方になって、さて帰るかということになり、彼が「うちに泊まらないか」というのでありがたく泊めてもらうことにして、林の中に張ってあったツェルトを回収した。そうやって泊めてもらったのが、最初の「吉田ハウス」で、伊豆高原の駅の近くの木造平屋の家だった。話を聞くと、彼は私と同じ昭和38年生まれ。北大を休学してクライミングのために城ケ崎にでてきたのだという。家の中には家財道具はほとんどなく、ラジオと「岩と雪」が何冊かあったのを覚えている。夜はクライミングの話をしたり、岩と雪を何度も読んだりした。

それから春休みの間、彼と城ケ崎のあちこちを一緒にクライミングした。彼は50ccのバイクを持っていて、それに二人乗りして出かけたりした。2ストだったからけっこうパワーがあったが、二人乗りで上り坂だとけっこう苦しい感じだった。警察の姿が見えると、彼は「降りろ!」と言って、私は捕まらないよう歩いたものだ。夕方にはスーパーに寄り、食材を買って自炊した。朝は、海岸沿いの遊歩道を一緒にジョギングした。そんなふうにして、彼との付き合いは始まった。

吉田がんばれ!

5月、東京転勤。

6月、肩を痛める。無理してトレーニングを続けて悪化。

腱板損傷と判明。手術はせず、リハビリで復帰にむけて努力中。

7月、吉田和正の入院を知る。月末に北海道に見舞いに行った。そのときは、割と元気そうな様子だったがまた悪化したりして、予断を許さず。

 吉田とは私がクライミングを始めた大学生の時からの友人だ。城ケ崎のシーサイドで偶然会った、あの日のことは忘れられない。その後、しばしば城ケ崎で一緒に登り、仕事を始めて長野に赴任したときは、小川山で登った。北海道に転勤になってからは、カムイ岩や赤岩青巌峡でルート開拓をした。思えば、自分のクライミング人生で最も良い時代、楽しいときを一緒に過ごした仲間といえる。あるいは彼にとっても、数々の高難度ルートを開拓した、その時代がもっとも輝いていたかもしれない。ここのところは会うことはすくなかったが、また一緒にロープを結んで登る日がくると、当然のように思っていた。

がんばれ吉田。
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